自分と他人とこの世界を信頼するための根拠

バックナンバー「グッドバイブスに失敗したときの立て直し方」で、グッドバイブスや「ひとつ意識」にたどり着くには、次の3つを無条件で信頼することが必要だと書きました。

・自分を信頼すること
・他の人を信頼すること
・この世界を信頼すること

ただ、「それができないから困っているんじゃないか」と思う人も少なくないでしょう。

たしかに、自分や人を信頼したいからグッドバイブスを目指しているのに、そのためにはまず信頼しなくてはならないとしたら、本末転倒というか、解ける糸口のないパズルに挑んでいるようなものです。

ただ、無条件だからといって、無根拠なわけではありません。そこで今日は、なぜ私がこの3つを信頼できると感じているのかの理由を書いてみようと思います。

最初に、大前提として共有しておきたいのは、「自分や他人やこの世界が信頼に値するか?」の答えは、どこまで行っても五分五分だという点です。信頼できることを完璧に証明することができないのと同じくらい、信頼できないと断定する証拠もないからです。

最終的には、あなたが真偽を判断して、あなたがどちらを選ぶか決めるしかありません。第三者の意見や、文献などは参考になったとしても、絶対的な決め手にはならないということです。もちろん、これから私が書くこともまったく同様です。

どこまで行っても、

「答えはあなたの中にしかない」

のです。

では始めましょう。まずは「なぜ、自分を信頼できるのか?」についてです。私はこのブログで、

「私たちは、自分自身について2つのまったく異なる捉え方ができる」

と書いてきました。

ひとつは、「全身の皮膚を境界線として、身体の内側だけが自分である」という「バラバラ意識」の見解です。結論から言えば、この捉え方をしながら自分自身を信頼することはできません。

身体という視点で見れば、人生でもっとも生産性が低いのは間違いなく赤ん坊のときです。つまり、こちらの世界では、私たちは何の役にも立たない無価値な存在としてこの世に生まれてきたことになるわけです。

当然、ここでは、

「何もできない自分は、存在価値を高めるために成長しなくてはならない!」

と、高い向上心をもって努力を重ねなければなりません。

では、どこまでやれば、何を達成すれば、私たちは「自分は信頼に値する!」と言えるようになるのでしょうか。おそらく、この問いの明確な答え出せる人など、この世にひとりもいないでしょう。

ここに、身体を自分と捉え、右肩上がりの成長志向で生きる私たちが、どこまでいっても「自分を信頼できる!」とは思えない最大の理由があります。

これに対して、「ひとつ意識」では、自分の本体を身体ではなく「意識」と捉えます。モノである身体は、「他の人やこの世界とひとつである」などと実感することはできないからです。

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』では、この「意識」を「創造のエネルギー」と表現しました。そして、私たちが、ビッグバン理論における原初の点から生まれたとするならば、すべての人に同じ価値の「創造のエネルギー」が宿っていると書きました。

モノでない「意識」や「創造のエネルギー」の価値は傷ついたり損なわれたりすることはありません。もちろん、成長するに従って価値が高まることもありません。

つまり、

「私たちはみな、等しく、価値MAXの状態でこの世に生まれたきた」

ということです。

「バラバラ意識」とはまさに正反対の発想です。ここでは、「自分だけが特別でありたい」「他の人を見下したい」などの我欲はまったく無用です。これによって、私たちには「自分を信頼する」という選択肢しか残らなくなると私は考えます。

次に、「なぜ、他人を信頼できるか?」です。すでにその理由の大部分は、「ひとつ意識」の「私たちの価値は完全に等しい」で明らかになっています。

ただ、そうは言っても、自分を不快にさせたり、苦しめたりする人はたしかに存在します。怒りをぶつけて来る人もいれば、攻撃を繰り出してくる人もいます。これらの体験は、「ひとつ意識」など一瞬で吹き飛ばしてしまうほど強烈です。

そこで忘れてはならないのは、

「バラバラ意識にいる私たちは、自我の指令に従って、意味づけをしたり、未来を予測したりしながら、いつでも恐れや不安を抱えている」

という事実です。

あなたも私も、怒りや悔しさや嫉妬心をもてば、かならずおかしな言動を選択します。焦っても、テンパっても、イライラしても、ふだんの自分では考えられないような、愚行を繰り返してしまうのです。

そんなとき、あなたも私もこう思っていないでしょうか。

「違う! これは本当の私じゃないんだ! いつもはもっといい人間なんだ!」

この感覚をもって他の人を見れば、おかしな言動の裏にある「恐れや不安」を見つけることができます。そこで、こう自問してみるのです。

「この怒っている人、自分を攻撃している人から、恐れや不安がなくなったら、私と同じ価値をもつ本来のこの人が、姿を現してくれるんじゃないか?」

結果はどうあれ、この瞬間に「この人を信じてもいいかな」という気持ちが、以前よりも少しだけ強まるはずです。これが「相手を信頼する」ための唯一の入り口だと思います。

最後の「この世界を信頼できる」根拠を見つけることは、他の2つほど難しくありません。バックナンバー「令和の時代は優雅な調和へと向かう」で書いたように、私たちが暮らすこの宇宙や自然界は、「うまくいく仕組み」の中で動いています。

私たちが頭で考えて創り出した「社会」には、現在でもさまざまな不都合があります。けれども、「この世界」には何の問題もありません。

もちろん、私たちはそのうちの「社会」の中で生きていますが、だからといって、「この世界」の外に飛び出しているわけではないのです。

だとすれば、

「最後にはかならずうまくいく!」

という「この世界」の法則は、私たちにもかならず適用されるはずです。

あとは、その法則をどう解釈するかだけです。私は次の2つを実践すれば「この世界のうまくいく法則」が自分にも働いてくれると感じています。

① 与えること。
② 受け身で対応すること。

惜しみなく降り注ぐ太陽のエネルギー。花がハチに蜜を与え、ハチは花の受粉に貢献する。そんな様子を目撃しながら、「この世界は与えることで成り立っている」ことに気づき、そのように行動するのが①です。

同じように、「雨が降っているときはおとなしくして、お日様が顔を出したときに芽を出す」という自然界のメカニズムに学ぶのが②です。

私たちがうまくいかないとき、たいていは受け身ではなく、能動的に動いています。「雨なんて上等だよ!」と無理をしたり、「太陽は出ているけど、まだ準備が整っていない!」と躊躇したりします。

なんとなく、先の「右肩上がりの成長志向」に似ていると思わないでしょうか。この自力先行型をやめて、受け身に徹することで「世界への信頼」は次第に揺るぎないものになっていくと私は考えます。

以上が、自分と他の人と、この世界を信頼に値すると思える、私自身の根拠です。あとは先に書いたとおり、あなたがどう感じるかがすべてです。

今日の記事が、その参考にさえならない可能性もありますが、このような視点もあるということを頭の片隅に入れておいてもらえるだけで、書いた意味はあったかなと思います。