今日のテーマはズバリ「妄想」です。拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』でも、このブログでも、繰り返し「妄想を手放せば恐れや不安が消え、たいていの悩みからは解放される」と書いてきました。
けれども、私自身も痛いほど経験してきましたが、やれば苦悩が生まれると頭では理解していても、なぜか「よくないことを考えていたい!」という誘惑に負けてしまうのも事実です。
そこで今日は、「もういいかげん、この悪癖をなんとかしたい!」と真剣に願う人のために、「妄想」と決別するためのマインドセットの作り方を書いてみようと思います。
何をおいても最初に確認してほしいのが、
「あなたは、自分という存在をどう見ているか?」
についてです。
この問いが漠然としてわかりにくければ、次のように言い換えてみてください。
「あなたは、しあわせであるのがあたりまえの存在なのか? それとも、不幸になっても仕方ない存在なのか?」
一軒の家にたとえてみましょう。ある家は、隅々までていねいに掃除が施され、お気に入りの家具がセンスよく配置され、いい香りのする色とりどりの花も飾られています。陽当たりは抜群で騒音もなく、窓を開ければ心地よい風が部屋を吹き抜けていきます。
もうひとつの家はいわゆるゴミ屋敷です。ガラクタが部屋中を埋め尽くし、足の踏み場もないほどのゴミが山積みになっています。あたり一面に悪臭が漂い、じめじめと淀んだ空気が家中に充満しています。
「どちらに住みたいか?」と聞かれれば、ほとんどの人は「キレイなほう」と答えるでしょう。では、この質問ならどうでしょう。
「あなたは自分の心を、どちらの家とみなしていますか?」
不本意ながらも、「うーん、もしかしたらゴミ屋敷のようなものだと思っているかもしれない……」と答える人も少なくないでしょう。
でももし、心の底から「妄想」を手放したいと思うのなら、無条件に「自分の心はまるでキレイな家のようだ」と確信してください。そして、その前の問いには「自分はしわせになるのがあたりまえの存在だ!」と断言してください。
キレイな家に住んでいれば、床にゴミをまき散らしたいとは絶対に思わないはずです。ホコリひとつ目についても、放置などせず、すぐに掃除機で吸い取ることでしょう。
ところが、その同じあなたがゴミ屋敷に住めば状況は一変します。来客が食べくずをこぼしても、コンビニの袋をそこら中に散らかしても、まったく気にならなくなります。なぜならば、そこはゴミがあるのがあたりまえの汚部屋だからです。
ぜひ、あなたの心と「妄想」の関係を次のように捉えてください。
「妄想は心にとってゴミのようなもの。あなたの心がキレイな家なら、それを甘んじて受け入れるようなことはしない。でも、ゴミ屋敷だとしたら、易々と招き入れてしまう」
他人が自分をどう見ているかではありません。あなたが、自分自身をどちらと評価しているかの問題です。
「いやいや、自分にはそんな自信もないし、価値も感じられない」と思ったとしたら、大きな誤解をしています。その根拠はおそらく、これまでの人生を振り返って、他の人たちと比べて、スキルや能力や実績などの「あとづけの何か」が足りないと感じるからでしょう。
いまはそのような話はしていません。問われているのは「あなたの心がどうか?」です。「自分の心はすさんでいる」と思うなら、いますぐ大掃除をしてください。心はモノではないので、時間も労力も必要ありません。
「よし! すべて洗い流す!」と決意したその瞬間に、生まれたてのピカピカな心が戻ってきます。
これによって、
「苦悩を生み出すような妄想を、けっして受け入れない自分」
が生まれ、「妄想」に対する強固な防波堤の役割をはたしてくれるはずです。
ここからは、ひたすら二者択一を繰り返すだけです。童話『花咲か爺』に出てくる、正直じいさんと欲ばりじいさんの「ごほうび」をイメージしてください。
「妄想」のない「平安な心」は、正直じいさんがもらえる小判や米や桜の花です。「妄想」によって抱く「恐れや不安」は、欲ばりじいさんが掘り起こす石ころや瓦です。
童話の世界なら小判や米を選ぶに決まっていますが、私たちはなぜか、石ころや瓦のほう、すなわち「恐れや不安」を抱くことにメリットを感じてしまいます。
その理由はさまざまです。
「最悪の未来を想定しておけば、大きなショックを受けずにすむ」
「自分にひどい仕打ちをした人を嫌うことで、少しは気持ちが晴れる」
「心配していれば、問題に対処しているような気分になれる」
「憤りをもって心を閉ざしていれば、相手に一矢報いることができる」
どれだけ儚くても、効果などなくても、実は問題の解決になっていないとわかっていても、やはりそこには、どうにも抗えない快感があるということです。
ただし、それはドラッグと同じように、大きな代償を伴う快感です。「望ましくない未来の予想」や「負の意味づけ」をすれば、確実に「平安な心」という宝物は失われます。
先に「やれば苦悩が生まれると頭では理解していても」と書きました。もう一度、本当にこの弊害に対して、見て見ぬ振りをしていないか確認してください。
「妄想」をすれば膨大なエネルギーを消耗します。身体にもさまざまな不具合が起こります。出来事や自分のまわりにいる人々の本質も見えなくなります。選択肢や可能性も極端に狭まります。
そのようなデメリットをわかったうえで、リスクヘッジや、憂さ晴らしや、小さな復讐といった欲ばりじいさんのガラクタを選ぶのか。それとも、私たちに万能な状態としあわせをもたらしてくれる、正直じいさんの宝物を選ぶのか。
どんなときでも、選択肢はこの2つしかないのです。
どうしても、「よくないことを考えていたい!」という誘惑に勝てない気がしたら、すぐに「キレイな家」の話を思い出してください。
そして、大きく息を吸い込みながら胸を張り、背筋を伸ばしてこう自問します。
「キレイに保たれた自分の心に、しあわせであるのがあたりまえの自分に、この妄想を招き入れていいのだろうか?」
一点の曇りもない澄んだ心をもって、しあわせな存在として生まれた「本来のあなた」に、ガラクタと宝物のどちらが自分にふさわしいかを、キッパリと選んでもらってください。
Photo by Satoshi Otsuka.
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