自分がもっていて与えてもなくならないもの

連休中の5月1日、令和の初日に投稿した「令和の時代は優雅な調和へと向かう」という記事の中で、自然界や宇宙のあり様を見ていると、そこには最初からある種の「青写真」のようなものが存在していたと感じずにはおれないと書きました。

もちろんそれは、私たちの行動を制限したり、律したりするようなものではありません。私も正確に言語化することはできませんが、引力の法則や相対性理論、もしくはDNAのように、この世界の事象をありのままに記したものに違いないと感じています。

であるならば当然、それに逆らってすべてを自分都合だけで決めるよりも、

「自分の選択はこの宇宙の青写真に則っているのか?」

を意識しながら判断するほうが、しあわせな結果をもたらすのではないかと思うのです。

ただ、その青写真の中身が、「こうすればこうなる」「こういうときはこうしなさい」などと具体的に明文化されているわけではありません。

私たちにできるのは、自然界や宇宙全体のあり様を眺め、そこに実現している「優雅な調和」を参考に自分の言動を決めることだけです。

それはすなわち、「私は自分や世界をこう見ている!」という、

「感性」

によって自分自身の人生を創造することでもあります。

たとえば、前話でも書いたように、この地上に無尽蔵のエネルギーを放射し続ける「太陽」は、「青写真」の中に刻まれた重要な法則、

「奪うのではなく与える」

を私たちに教えてくれているように見えます。

しかも、この世界のあり様から感性で捉える「与える」には、いわゆる旧来の「奉仕の精神」といった道徳的な発想とはまた別次元の、力の抜けた自然さを感じずにはおれません。

私たちが無理なく「与える」ためには次の2つの前提を踏まえることが必要です。

① 自分がもっていないものは与えられない
② 与えるとなくなるものは与えられない

では、「自分がもっていて、与えてもなくらないもの」とは何でしょうか。

お金やモノも、どれだけ与えても「なくなった」と感じないほど所有していたとしたら有力な候補になるでしょう。けれどもそのような状況にない私は、真っ先に知識、経験、スキル、そしてそれらを騒動員した、

「自分の仕事」

を思い浮かべました。

もし、あなたの感性も同じようにこの世界を捉えたとしたら、「自分がもっていて、与えてもなくらないもの」を惜しみなく与えることを、人生の目的にしてみるのもひとつの選択肢です。

「いやいや、それでは絶対に自分だけが損をする」と思うかもしれません。そんなときこそ、青空や夜空を見上げながら、木々や草花、鳥たちを眺めながら、

「この世界が、奪われている感や、犠牲になっている感で成り立っているか?」

と、あなたの「感性」にたずねてみるのがいいでしょう。