知らないという状態には無限の可能性がある

拙著『グッドバイブス ご機嫌な仕事』は、次のように私たちの認識を疑うところからスタートします。

「もしかしたら、 自分はこの世界の姿を見誤っているんじゃないか?」

それはすなわち、私たちがあらゆるものについて、本当のことを「何も知らない」「何もわかっていない」と認めることでもあります。

もちろんこのことは、何十年ものあいだ、自分自身や身のまわりの事柄について「よく知っている」という前提で生きてきた私たちにとって、とても受け入れがたいことです。

けれども、「知らない」ことを真摯に認めて初めて私たちは、

「仕事はつらいもの」
「自分は他人から切り離されたちっぽけな存在」
「出来事や他人の言動には最初から決まった意味がある」

などの、それまで見てきた世界の景色を変えることができるのです。

そこで今日は、私たちにとって「知らないことが本当に問題なのか?」について考えてみたいと思います。

いまから20年近く前、IT雑誌の編集長をしていた私は、ひとりの素晴らしい経営者を取材しました。

もともとアンティーク家具の販売を営んでいた彼が、私の自宅近くにとびきりお洒落なカフェをオープンしたのを見て、「話を聞いてみたい!」と思ったからです。

約2時間の取材のあいだ、数々の興味深い話が続きましたが、いまでも鮮明に覚えているが次のような言葉です。

「私は基本的に経験者を使いません。このプロジェクトに携わっているのも、カフェはおろか飲食の経験すらないスタッフばかり。まさに素人集団です(笑)。
新規にスタッフを採用する際も、カフェのオーナー歴10年なんて人はすべてお断りしました。そういう人はコーヒーの煎れ方はこうだとか、メニューはこうあるべきとか、固定概念があってつまらないんです。
それよりもね、ズブの素人がわけのわからないアイデアを出し合って、ひどい間違いを繰り返しながら、試行錯誤の末にうちならではのオリジナリティーができあがっていく、そんなプロセスが楽しいんですよ!」

たしかに、彼のカフェには「変なところ」がたくさんありました。もちろん、その変さこそが、彼を取材したくなるほど私を魅了した最大の要因です。

この話のもっとも重要なポイントは、

「知らないことに可能性を見出している」

ことにあります。言い換えるならば、

「常識や過去のデータよりも、予期せぬ出来事を信じている」

ということでもあります。

ここで私たちの思考回路を紐解いてみましょう。「知らない」状態に不安を覚える私たちは、まず情報というものを頼りにします。そして、すべての情報はすでに起こったこと、すなわち「過去の記録」です。

次に絶対の信頼を寄せるのが自分自身の経験です。数々の難問を解決した経験、絶体絶命の修羅場を乗り越えてきた経験、さまざまなタイプの人々とつき合ってきた経験、それらはきっと未来に起こる似たようなケースに役に立つという発想です。

もちろん、経験も情報と同じように「過去の記録」です。

ではなぜ、私たちはこれほどまでに「過去の記録」を好むのでしょうか。それはほかでもない、

「過去は、決して変わることがない固定された事実」

だからです。

「石橋を叩いて渡る」という言葉がありますが、私たちにとって「変わることがない過去」は、石橋よりもはるかに強固な、唯一、安心できる足場となるわけです。

ところが、私たちの暮らすこの世界は少しも休むことなく、つねに変化し続けます。風、雲、波、天気、自然界の現象のどれをとっても、完全に同じことを繰り返すものはひとつとしてありません。

自然の一部である人間の営みも例外ではありません。私たち自身も含めて、

「変わることこそがこの世界の本質」

なのです。

先の経営者は、「知っている」ことを「固定概念を抱えた状態」と見ていました。「過去の記録」を信頼する私たちもまた、行動や考え方の多くを強く固定されています。

ぜひここでイメージしてみてください。

「変わり続ける世界の中で、自分だけが固定されているとしたら?」

これこそが、拙著で「過去は私たちのありのままに見る目を曇らす」と書いた最大の根拠です。また、「何も知らない」「何もわかっていない」と認めることから、世界の見方を変えるという発想の原点もここにあります。

つまり、「知らない」ことを恐れる必要などまったくないということです。先の経営者が教えてくれたように、そこには未知の、そして無限の可能性が秘められているからです。

「自分だけは知っている」と思い込み、固定された状態に身を置こうとするほうがむしろ、変化する世界に逆らう不自然な行為なのではないでしょうか。

Photo by Satoshi Otsuka.