今日は、「余裕」という幻想について考えてみたいと思います。
私はよくこんな相談を受けます。
「いまの仕事をするうえで、自分には能力が足りていないと思うんです」
「仕事で周囲に迷惑でもかけているのですか?」と聞くと、「いや、期限どおりになんとか終わらせられています」と言います。だったらなぜ、そう思うのかを尋ねてみると、
「いま、まったく余裕がないから」
という答えが返ってきます。
あるいは、こんな悩みをもつ人もいます。
「本当はもう少し稼ぎたいのだけど、なかなかうまくいきません」
そこで、「いまお金が足りないんですか?」と質問すると、「いや生活するには困っていません」と答えます。ではなぜ、もう少し稼ぎたいのかを聞くと、
「いま、まったく余裕がないから」
と同じ回答が返ってきます。
このように、私たちは能力や収入だけでなく、自分が手にするさまざまな事柄に関して、ただそれを得るだけではなく、なぜか「余裕」までを求めようとします。それが実現して初めて、満足、安心できる状態になると信じているのです。
勝負事にたとえるならば、接戦の辛勝ではダメで、大差をつけた圧勝や楽勝を望むような気持ちといってもいいでしょう。
ではここで、あなたの人生を振り返って次のことを検討してみてください。
「自分はこれまでに、余裕のある状態を得たことがどのくらいあるか?」
個人差はあると思いますが、おそらく多くの人は「あらためて思い出してみると、たしかにそれほど多くはないかも」と答えるのではないでしょうか。「そんな経験は一度もしたことがない」という人も少なくないはずです。
たとえば、仕事においてなら、あなたの能力が上がれば、それに従って依頼される内容の難度が増すことも十分にあり得ます。
だとすれば私たちは、
「いつでも自分の能力を少し上まわる役割を求められている」
ことになります。当然ですが、そこに余裕など生まれるはずがありません。
お金の話もまったく同じです。年収が増えれば、あなたが食べるもの、着る服、住む家、乗る車などの値段も、それに比例して高くなっていくのは必然です。
このような仕組みの中で「余裕」を求める行為は、どう動いても自分の1メートル先にターゲットが逃げるようにプログラムされたゲームで、それを捕まえようと必死に努力するようなものです。
「余裕はいつでも自分の少し前に移動し続ける」
ということです。
その意味で、「余裕」もまた、私たちの頭の中だけに存在する幻想のひとつだと私は考えます。なにかの好条件でたまたま得られることはあっても、私たちの思惑どおりにいつでも確保できるような代物ではありません。
そのようなものをほしいと思う代わりに、
「ギリギリでも、いまなんとかなっていること」
に対する評価をもっと大幅に上げてみてはどうでしょう。
四苦八苦しながらも期限ちょうどに仕事を終わらせた自分の能力。期待するほど残らないけども、ほしいものは手に入れられている自分の経済状態。本当は、「ギリギリでも、いまなんとかしている自分」をもっと誇るべきなのです。
幻想を追い求めればかならず苦悩が生まれます。「自分には能力が足りないんじゃないか」「もっと稼げない自分はダメなんじゃないか」そんな不安が頭をよぎったら、まずは「いまできていることを軽んじて、余裕を追い求めていないか?」を確認してみてください。
Photo by Satoshi Otsuka.
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